2021/10/8
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地震の話が昔の思い出話に |
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首都圏で地震 先日、青森で地震があって、昨日は首都圏、しばらく大きな地震はなかったのに続いています。大きな地震の予兆でなかったらいいのですが。東京、新宿支店に勤務していた時はよく地震を感じました。支店が野村ビルの36階でしたので、ちょっとした地震でも揺れを感じ、続くと船酔いみたいで気分が悪くなります。大地震があるとビルが揺れるようになっていて、大袈裟ですが、隣の当時の安田火災ビルとくっ付くのではないかと思うくらい揺れたことがあります。思わず机の下に隠れました。 支店から遠くに富士山が見えるなど、窓から見る景色はきれいでしたが、当時はゆっくり見たことはあまりなかったですね。防災訓練があるとエレベータが使えなく、階段で降りるのは大変でした。懐かしいです。 この時、埼玉県の久喜市という所に住んでいました。転勤が多かったので、うちのの実家の近くで、親の近くに住むのもいいかなと思ったのですが、通勤は大変でした。久喜駅まで歩いて15分、久喜から池袋乗り換えで新宿まで1時間、新宿から支店まで15分の歩き、毎朝1時間半強の通勤でした。座ることはできなく、池袋から新宿まで(当時の埼京線は新宿まで)の一駅は、10分ほどですが超満員でまったく身動きできません。都会人は歩かないので運動不足っていうのはウソだと思っていました。 当時自分のことを「シンデレラボーイ」と呼んでいました。1週間のうち、3~4回、新宿発22時45分の座席指定のホームライナーに乗り、11時45分に久喜駅について家に着くのが12時頃でした。これに間に合わないと、行きつけの?サウナに泊まることになります。 ある日、サウナにいると「課長!」と呼ばれ、振り返ると支店の若い社員でした。二人で飲んでいると、「ちょっと」と、もう一人別の若い社員がいました。それぞれ別の用事で帰れなかったようです。明るくなるまで飲んで、少し寝て、二人に「先に行くぞ」と声を掛けて会社に行ったのですが、二人は・・・それからしばらく経って、「青木課長は家にあまり帰っていない」みたいなうわさが出回りました。泊まるのは月に1,2回だけです。ちなみに金曜日に、次の日に予定があったので、タクシーに乗って帰ったのですが、2万円持っていたのですが、足りるかなとハラハラでした。19920円でした。夜中の1時過ぎでしたので、うちのを起こすわけにはいかないので・・・以後、タクシーでは帰るなと言われていました。 |
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